小人閑居して不善を為す chapter3

一介のプレイヤーからハイスコアラー、そしてゲームセンターの中の人を経てアーケードゲームと関わること40年以上、その普通とはかなり異なるゲーマー人生を回顧するべく記事を綴っております。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 セガワールド上田 その4

2003年、大きな予告も無くとあるキッズ用カードゲームが入荷します。

特に騒がれていたタイトルではなかったのですが、このゲームが追って記録的な大ヒットとなろうとは最初は全く想像していませんでした。

そのタイトルとは「甲虫王者ムシキング」です。

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画像はSEGA VOICE (https://sega.jp/fb/segavoice/050331/home.html) より転載

このブログのメイン読者層には馴染みが薄いタイトルだと思いますが、店長としてこのゲームの運営にかなり入れ込んだ経緯があるため、個別で取り上げることにしました。

 

機器導入においてプロモーションがあったわけではなく、またキッズ向けゲームのため筐体も小ぶりでアイキャッチで目立つのは真ん中にあるカードリーダーくらいのため、正直最初に店舗に導入したときはそれ程売上が期待できるタイトルとは思いませんでした。実際最初の頃は1台でデイリー20~30回程度のプレイ数で、キッズゲームにしては上出来かな?という程度。

ただ導入から時間が経過しレアカードの存在がクローズアップされてくるとプレイ数は寧ろ上昇傾向となり、家族連れのお子様がプレイしている光景が目立つようになってきます。

 

このゲーム、甲虫同士の勝敗をじゃんけんで決するという内容なのですが、対戦に勝利するためにはステータスの強いレアな甲虫カードを所持することに加え、わざカードを合わせて使用することでじゃんけんを少しでも有利にするという戦略性の部分も持ち合わせています。

ある日、店内を巡回している時に何気なくゲーム状況を見ていた私はその戦略性に気付き、「このゲーム、カードを集めてCPU戦させるだけでなく、お子様同士で対戦させたら盛り上がるのでは?」と直感し、面白半分でゲーム大会を実施してみたところ、初回にして30人程度の参加者が集まり驚いたものです。

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ムシキング公式大会参加景品 画像はヤフオクより転載)

人気が出てくることで、追って写真のような大会参加者向けの専用景品や、優勝者にプレゼントされる専用カードといったツールも用意されるのですが、自分が始めた頃はツールは何も無く、手製の賞状をお渡しする程度だったと思います。

それでもかなりの集客に繋がったことに手応えを感じた私は、参加履歴のある方に大会実施の度にDMを送ったり、観戦用の外部モニターを設置したりと集客や運営の改善を進め、また大会数を重ねて実況も板についてきたことも手伝い、仕舞には「ムシキング博士」と称して用意した白衣を着込み子供たちの前で実況していました。まだ当時はいろいろとパワーが有りましたね。

大会は最も多い時には80人近い参加があったと思います。その時は開始から終了まで4時間程度を要したため大会終了後はヘトヘトになって事務所で暫く突っ伏していました。

 

そしてゲームの人気が頂点に達してくると、全国のセガロケーションにてゲーム大会等のイベントが拡がってくることになります。その前から運営ノウハウを蓄積した私は上田店が比較的スタッフ数に余裕があったことも手伝い、長野県の他店でイベントを実施する際に引っ張られて行くようになりました。県内他店で大会を行う際の進行・実況役に始まり、夏季に上信越自動車道のハイウェイオアシス佐久平に設置された「ムシキングワールド」の設営手伝い、東京銀座の銀座博品館に「ムシキングミュージアム」が出来た時の視察など、店舗外で活動する時間が増えてくることになります。


また全国大会も実施され、各店舗予選→地域予選と駒を進めて行くのですが、長野県は北陸エリアに含まれたため地域決勝の場所は金沢。そこに自店から代表として出場する子の応援のために休みを利用して金沢まで向かったりしたものです。

 

このようにセガ在籍時末期は相当な時間と労力をこのゲームに割いていたんだなと思い返しています。

まだムシキングのブームが続いていた2005年に私はセガを退職し、そこでムシキングとの縁は切れてしまったのですが、当時お店で遊んでいたお子様達の殆どが成人となっているはずで、もう私のことなんか覚えていないだろうなあと思いながら時間の経過を痛感しております。

 

その5へ続きます。