小人閑居して不善を為す chapter3

一介のプレイヤーからハイスコアラー、そしてゲームセンターの中の人を経てアーケードゲームと関わること40年以上、その普通とはかなり異なるゲーマー人生を回顧するべく記事を綴っております。

ゲームセンター回顧録 セガの中の人の時代 ハイテクランドセガシントク その2

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2020年9月3日撮影(以下写真は全て同一日時)

 

前回は店舗がオープンした頃の秋葉原事情の話が殆どでしたが、今回は実際の勤務や店舗内の話を中心に内容を進めていきます。

 

1992年11月新規オープンだったため、夏休みが明けた9~10月頃には採用面接を受けていました。建屋の5階事務所で数人単位で集団面接を行った記憶が残っています。

 

5階が事務所だったということから伺えますが、オープン時は地下1階~4階までが店舗として使用されていました。6階から上は立ち入った記憶はありません。当時のフロア構成は以下のようになっていました。

 

地下1階:ビデオゲーム

1階:プライズ機及び大型筐体

2階:大型筐体及びカーニバルゲーム(エレメカ系)

3,4階:メダルゲーム 

 

特に秋葉原という立地を考慮してフロア構成や設置機械が他のセガ店舗から大きく変更されるということはなく、当時の標準的な機種構成だったのではないかと思います。まだ秋葉原という市場が未知数だったということでしょう。

 

しかし前述したように、特に週末になると地下1階のビデオゲームコーナーには客があふれている一方で、2階のカーニバルゲームや3階、4階のメダルコーナーには人影が少ない状況が多く、秋葉原という市場で売上が期待できる機種の傾向がはっきりしてくるにつれ順次フロア構成も変化していったように思います。

 

とは言え私がスタッフとして働いていた期間には大きなフロア構成の変化に当たることはありませんでした。

日頃から別のゲームセンターへ通い詰めていた私はおおよその仕事の内容を把握していたため、他のスタッフの殆どが未経験の中で卒なく仕事をこなしていましたが、ハイテクノーベル神保町のアルバイト退職の影響でそちらからお声が掛かり、バイト先をノーベルへ移すことになります。そのためシントクでの勤務歴は半年程度で終了しました。

 

そしてこの記事をまとめるにあたり、先日20云年振りにセガ1号館に入店したのですが、当時は事務所だった5階を含め7階までがフロアになっており驚いたものです。「秋葉原史記事」のブログによれば2018年に大規模改装が実施されているようなので、その際にフロア化されたのでしょうか。

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現在のフロア構成は写真のようになっており、当然ながら私が働いていた頃と比較すると全く異なるものとなっています。

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(現在の2階フロア。オープン時はカーニバルゲームと一部大型筐体があったフロアです。)

オープン時のフロアだった1~4階までが全てプライズ機になっており、昨今のゲームセンターが何で売上を立てているのかはっきりとわかるフロア構成であり、30年という時間の流れを感じざるを得ません。

 

店舗がオープンした1992年当時は、最初のUFOキャッチャーブームが始まった頃とは言え、まだゲームセンターにおけるビデオゲームの売上比率が大きかった時代です。

しかしながら80年台には比較的ゲームファンに寛容であったセガナムコの直営店は、90年台に入ると一般層にアピールする方針から、急速にゲームファンを店舗から排除する方向へ舵を切ります。店舗のことを「ゲームセンター」と呼ばれることを忌諱し、内部では盛んに「アミューズメントセンター」と呼ぶように指導されていました。

 

余談ですが、結局「ゲームセンター」を「アミューズメントセンター」と呼ぶことは定着せず、ゲームセンターという言葉自体に以前のネガティブ感が薄れた現在はメーカーも普通に「ゲームセンター」という呼称の使用に戻り、「アミューズメントセンター」はむしろパチンコ業界が使用する呼称になっています。

 

そんな時代背景もあり、例え秋葉原と言えども市場は未知数であること、またオープン時のフロア構成を見てもわかるように特にゲームファンの集客は志向されませんでした。

ゲームファンやスコアラーを集客するためにコミュニケーションノートを設置したり、連射装置を取り付けるようなサービスは、フロアも大きくスタッフ数も多いため管理が出来ないことを含めてむしろご法度で、私も仕事は仕事と割り切って勤務していました。そのため仕事のオフ時やプライベートでは一切店舗には近寄らず、ハイテクノーベル神保町をホームとする日常には一切変化はありませんでした。仕事と遊びは別ということですね。

 

今回20数年振りに店舗の中へ足を踏み入れた状況からもお分かりいただけるように、スタッフを辞めた後もほぼ近寄らなかったシントクですが、退職後最初のうちは仲の良かった残留スタッフから店舗動向情報を入手する機会はありました。

その最たるものは、「秋葉原史記事」ブログ内にも記載されていますが、オープン翌年の1993年に起きた共同経営先のシントク電気倒産。建屋はサトームセンが購入しましたが、立地が良かったことと当時ですら建物の老朽化が目立っていたため、ゲームセンターは閉店して同じ場所に新たな家電量販店を建設する計画が浮上しているという情報を耳にします。

 

しかしながらゲームセンターとしての売上があまりにも良好だったこともありなかなか実現には踏み切れなかったようで、営業が続けられるといつに間にか建て替えの計画は霧散し、「ハイテクランドセガ秋葉原」「セガ秋葉原1号館」と名称を変えつつ30年近く経過した現在でも引き続き営業が続いているのは皆様ご存じの通りです。

 

この店舗の成功により、秋葉原はゲームセンターが商売として成立する場所という認識が広がったことで、現在セガが最大5店、またタイトーやレジャーランド、アドアーズ等がこぞってゲームセンターを出店する礎になったことは疑いのない事実でしょう。秋葉原の風景を変えることになったきっかけとなる店舗だったと思います。

 

そして私のアルバイトスタッフとしてのセガ勤務歴は半年程度で終了したのですが、その後4年後には再度、今度は社員としてセガに戻ってくることとなるのでありました。