小人閑居して不善を為す chapter3

一介のプレイヤーからハイスコアラー、そしてゲームセンターの中の人を経てアーケードゲームと関わること40年以上、その普通とはかなり異なるゲーマー人生を回顧するべく記事を綴っております。

ゲームセンター回顧録 キャノン最前線&オレンジペコ その3

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2019年7月13日撮影

名古屋市営地下鉄鶴舞線いりなか駅から徒歩2分

 

正確な時期は把握していませんが、1994年頃にキャノン最前線が閉店後にオープンし、結果的にはキャノンの市場を引き継いだ形となったお店です。場所は移転後のキャノン最前線から西へ50m程度ずれただけで、ほぼ同位置と言っても過言ではないでしょう。

 

この店舗の運営会社は「日本ぱちんこ部品」というパチンコの役物等を製造している会社でした。いりなか店とは別に名古屋市中心部の金山にも金山店が存在していました。

http://www.nippachi.co.jp/

 

なぜパチンコ関係の部品メーカーがゲームセンターを運営したのか?

1990年代はパチンコの市場規模が相当に大きかった時代です。ゲームセンターという業態は実は税金対策という側面を多分に持ち合わせており、本業の傍らでパチンコ業界とも関わりの深いゲームセンター運営に「税金対策」として進出したのでは?というのが自分の見立てです。

 

ただ、キャノン閉店と前後していりなかという場所に着目し、実際に市場を掬い上げ後継店舗としての地位を築いたという経緯は、偶然にしては出来過ぎている気がしないでもありません。

 

そして私は1995年に就職で名古屋に戻りますが、昔の伝手でイエローハットに出入りしていた時期には既にハイスコア集計店としてゲーメスト誌面に店舗欄があったため、その存在は認識していました。

 

そしてティンクルスタースプライツのスコアアタックを機に本格的にオレンジペコへ出入りすることになる訳ですが、それとは別に当時住んでいた場所が現在の北名古屋市で、いりなかは通勤経路と方向が違っていたものの、いりなかを通る地下鉄鶴舞線名鉄犬山線と乗り入れを開始しており平日は会社帰りに寄り道しても自宅最寄駅へ直接帰れたこと、また車を入手したことで休日の行動範囲が広がったというきっかけも大きかったのではないかと思います。

 

その4へ続きます。