小人閑居して不善を為す chapter3

一介のプレイヤーからハイスコアラー、そしてゲームセンターの中の人を経てアーケードゲームと関わること40年以上、その普通とはかなり異なるゲーマー人生を回顧するべく記事を綴っております。

ゲームセンター回顧録 スコアラー不遇の街大宮 その3

2.南銀座(通称:南銀)エリア

今度は大宮駅東口正面を出て右側、通称「南銀」と呼ばれる南銀座地域を紹介します。

 

大栄橋より先の特殊浴場街は別として、普通の商店や大型店が軒を連ねる北銀座(銀座通り)とは異なり、南銀座は昔から危険なエリアという位置付けで、自宅から場所も遠くなることも含めて子供の頃は近寄り難い場所でした。このエリアに出入りするようになったのは、大学に入って名古屋から再度埼玉へ戻ってきてからとなります。

 

①スーパーマン

南銀座商店街に入って最初に向かって右側にあった店。特に表に出てはいませんでしたが、機器構成やお店の造りで恐らくはタイトーの息が掛かった店舗と想像されます。

昔はメダルコーナーがあったような記憶がありますが、最後はビデオゲームと入口付近のプリクラがメインとなっておりました。

2011年に閉店。建物は撤去され長い期間更地のままでしたが、最近になって写真のビルが建ちました。

 

②Spica

北銀座の「ゲームガレージ大宮」が2012年に閉店後、この場所に元々あったパチンコ店の跡地に店舗名を変えて移ってきました。

元パチンコ店の建物を全て使用しても、かつてのゲームガレージのラインアップを全て揃えるには面積が足りなかったのか、メダルコーナーは廃止されプライズ、プリクラ、ビデオゲームの構成。ガレージの時代と比べるかなり小規模となってしまいました。現在も営業中です。

  

キャロム大宮店→APINA大宮店

元々「金馬車」というパチンコ店が入っていた場所が撤退し、後釜としてゲームセンターがオープンした経緯があります。パチンコ店の居抜きで内装をそのまま使っていたこともあり、オープン当初はやけに豪華な店舗に見えたものです。

昨年にキャロムとしては閉店し、そのままAPINAが運営を引き継ぎました。昔長野県に住んでいた身としては、当時は長野県だけに店舗を構えていたAPINAが遂にここまで進出してきたか、と複雑な心境になります。

現在も南銀座でゲームセンターとして営業が続いているのはこことSpicaの2店のみ。双方とも元々パチンコ店の居抜きという所も共通しています。

 

④SOS

専用のメダルをビデオゲームコイン投入口に入れてプレイする、風営法的にはかなりグレーな店舗。メダルゲームのカテゴリーになるのはBET式麻雀や8ライン系の所謂「違法賭博系」機種だけで、その他はほぼビデオゲームで構成されていました。

メダルのレートが100円→2枚(実質1プレイ50円)で周辺店舗より安くプレイできたため、対戦メインの客層が多かった記憶があります。

2005年に店舗から火災が発生、しばらくその跡を晒していましたが、復活することなく閉店しました。

 

タイトーイン大宮

大宮は伝統的にタイトーの力が強かったようで、前述のスーパーマン、後述するハタボウル内のゲームセンターと並んで南銀座に直営店も構えていました。地図および写真は閉店時の場所ですが、ここに移る前は近隣の別位置にあり、途中からこの場所へ移ってきました。

 スーパーマンのような半直営(建物オーナーと契約して売上分配)店舗が近隣にあったため、オーナーに配慮してそちら以上にゲーム機に投資してラインアップを揃えることが難しかったのでしょう。製品の入荷には恵まれていなかった印象があります。

製品の入荷が厳しい分、移転前はコミュニケーションノートを設置しておりゲームファン層を取り込むことに積極的だったようです。移転後は正直殆ど行った覚えがなく、いつの間にか姿を消していました。移転後の場所は写真のようにセブンイレブンとなり、移転前の建物は恐らく建て直されているものと思われます。

 

 ⑥大宮オリンピアスクウェアワン大宮オリンピア

 南銀座のゲームセンターにパチンコ屋居抜きの大型店が増える以前は、店舗面積はここが最も大きかったのではないでしょうか。赤羽にとある事件でスコアラー界隈では有名になった同名の店舗がありましたが、大宮との関係性は不明。ひょっとしたら系列店だったのかもしれません。

途中から店舗名はそのまま運営会社がゲームモアイ系に変わったようで、後述するゲームモアイ大宮店と実質2店体制のようになっていました。

その後、再度運営が変わり最後はスクウェアワン大宮オリンピア店として営業していたようですが、その期間は短く2016年に閉店。

 

 ⓻ゲームファンタジア大宮→アドアーズ大宮→モアイ大宮店

名前を見ればお分かりの通り元々は旧シグマ系店舗。3階より上はカプセルホテルとなっており、その1,2階を使用していました。

南銀座商店街の最深部、ここまで来ると周辺の店舗も居酒屋系からスナック系に変化し、夜でも人通りはそれ程多くないエリアになりますが、店舗が大型化する1990年代後半位までは大宮中心部でまともにメダルゲームを遊べる店はここくらいしかなかったため、場所が悪い割に需要はあったのかもしれません。

マクロス2(バンプレスト/NMK,1993)があって、捨てゲーのため筐体の電源切っていたら店員に見つかって怒られたことは時効でお願い申し上げます…

 

シグマからアドアーズに経営が変わった後も、店舗名称を変え生き残っていましたが、いつからかゲームモアイに運営が変わり、ゲームモアイ大宮店となっておりました。この時に当時モアイ系の店舗が強かった音ゲー中心の構成となり、近年まで営業が続いていましたが、オリンピアと同じく2016年に姿を消しました。

 

 南銀座はその性格上店舗の入れ替わりが激しく、上記以外でも短期間でゲームを置いていた店舗はいくつか存在していますが、今となっては全て捕捉することは不可能に近いのではないかと思われます。

その4へ続きます。

ゲームセンター回顧録 スコアラー不遇の街大宮 その2

地元でありながらこれまで自分のホームと呼べる店舗は1店も無く、スコアラー的には特筆すべき点がほぼ無い大宮ですが、店の数が多かったこともあり店舗を紹介するとなるとそれなりに尺を要します。

 

そのため、エリアを以下に分けて紹介することにしました。

1.北銀座(通称:北銀)エリア

2.南銀座(同:南銀)エリア

3.大宮駅西口エリア

4.大型店舗内(百貨店、GMS内店舗)

5.東大宮駅、宮原駅周辺

 

対象期間が40年以上あるため、私の知らない店舗で抜けがあったり、位置や店名が合っていない場合があると思いますが,何卒ご容赦下さい。

1.北銀座(通称:北銀)エリア

大宮駅東口を降りて正面向かって左側のエリア。

昔は西武百貨店や長崎屋が立地した商業地帯でしたが、それらは全て撤退しパチンコ店に。それでも未だに埼玉県最大の繁華街であることには変わりはありません。

 

タイトーステーション大宮

大宮駅東口を出て左手、メインストリートの銀座通りに入ってすぐの所に最近のタイトー店舗CIであるインベータ―が見えます。

大宮で最も新しいゲームセンターで、まだ出来て5年程度。オープンの際に秋葉原のheyから応援や店舗運営指導があるという噂があり、オールドゲーム系の入荷を期待したのですが、いざオープンして様子を見に行くと至って普通の都市型店舗のラインアップでがっかりした記憶がwまあ場所も良いし売り上げを考えれば製品構成は自然とそうなりますよね…

 

②ゲームガレージ大宮

「大型店舗内」のカテゴリにしようか迷いましたが、こちらで紹介することにしました。建物は旧長崎屋大宮店で、長崎屋撤退の後に複合レジャービルとして2002年にリニューアルされ、1階はパチンコ屋(オリエンタルパサージュ)、2階にゲームガレージが入居したもの。店舗名からもわかるように当初はアトラスが運営していました。

売上が良かったのか、後に3階にもゲームフロアを拡張。大きな2フロアをフルで使用し全方位の製品を入荷していましたが、2012年に閉店後、後日紹介する南銀座エリアに「spica」という店舗名にて営業を再開するに至ります。

現在は別のパチンコ店が施設ごと再リニューアルしており、写真のように面影は全く残っていません。

 

③シルバーボックス

現在は雑居ビルとなっていますが、当初はビル全体がゲームセンターでした。80年代前半には既に店舗が存在しており、当時は大宮界隈で最も大きな店舗であったと思われます。

全盛期に2階にミサイルコマンドが設置してあり、瞬殺された思い出があります…

だんだんとゲームのフロアを縮小し、最後は地下1階のみをゲームセンターとして営業していました。2000年代まで店舗は残っていたと思いますが、近隣に大型店舗が林立する中、1プレイ50円ビデオゲーム主体では限界となったのでしょう。今は建物の名前にのみその面影を留めています。

 

④BIG APPLE

恐らく90年代初め位にオープンしたこの界隈では比較的新しい店舗。

建物の1~3階までがゲームセンターで、1階がプライズ、2階が大型筐体及びプリクラ、3階がビデオゲームと90年代以降の標準型都市型店舗でした。

全てにおいて中途半端な店舗という印象は拭えず、末期はスタッフが友人に営業中堂々とタダクレジットを提供していたりと管理不十分の状態。店員がそんな状態ですから客層もお世辞にも良いとは言えず、建物上層階にとなのあなが入居して少しはシナジーが起こるかと思えばそんなこともなく、2015年に姿を消しました。

 

⑤ハイテクセガ大宮→アミューズメントステーションTRIP

 大宮初のセガ直営店舗。私が初めて入店した際にはスペースハリアームービング筐体とハングオンのライドオンタイプが並んで設置してあり、1985年前後にオープンしたと思われます。

入口の大型筐体群を過ぎそのまま直進した1階はメダルゲーム、階段を上がって2、3階がビデオゲームという構成。

f:id:annaka-haruna:20190616221551p:plain

ゲーメスト、1988年10月号より)

この店が惜しまれるのは一時スコア集計を行っていたということ。2階の壁面にハイスコアが貼り付けてありました。大宮市中心部で唯一スコア集計を行った履歴が有る店舗と思います。

ただ、雑誌への掲載はなされなかったため、上のグラディウスⅡの初回1000万達成に唯一その足跡が残るのみとなっています。

ここがもっと盛り上がっていれば埼玉県のスコアラー界隈も違っていたと思いますが、80年代後半からはセガに限らず特にメーカー系店舗にゲームファンを冷遇する店舗が増加し、スコア集計はそれ程長続きしませんでした。

店舗も90年代に入ってセガが撤退し、アミューズメントステーションTRIPという名称で継続。一時はポップンミュージックの聖地だったようですが、2007年に閉店しています。

 

⑥店名不詳

店名は「チャンピオン」だったような記憶がありますが、定かではないため不詳といたしました。メインストリートの銀座通りからは外れており、入口上部に雨避けがあってそこに店舗名が書いてあったような記憶から、写真の美容院の建物で間違いないと思われます。

ビデオゲーム20台程度の小さなお店で、スペースファイアーバード(任天堂、1980)をテーブルでプレイした記憶しか残っていません。

 

⓻ゲームコーナーA1

大宮駅の構内をまたぐ大栄橋のたもとにあり、橋の下をくぐった先にあったことからこのお店だけ他の店舗から離れて存在していました。そしてここからさらに北側は昔の西川口と並ぶ埼玉最大の特殊浴場街。しかし昼間に遊びに来るには静かな場所で、名古屋に行く前の小学生時代は自宅からも比較的行きやすいこともあって最も頻繁に訪れていた店舗でもありました。

設置台数はテーブル筐体20~30台程度の小さなお店。暗くて狭い店内はいかにも昔のゲームセンターでしたが、その暗い店内に佇むグラディウスの画面の美しさは未だに脳裏に焼き付いております。

お店は監視が行き届いていた印象で、特に治安の悪さは感じたことがなく安心して遊べるお店でした、プレイ代金も50円だったため結構上手いプレイヤーが出入りしていたような。

90年代前半には既に店を閉めていたと記憶していますが、建物はつい最近まで残っていたものの、現在は建て替えられ写真のようになっています。

 

A1より更に先にあったゲーム機設置の駄菓子屋や、ラウンドワン大宮店は割愛しました。

その3へ続きます。

 

 

ゲームセンター回顧録 スコアラー不遇の街大宮 その1

f:id:annaka-haruna:20190601123344j:plain

名古屋が2回続いたので、今度は生まれ故郷でありまた現在も暮らしている埼玉県へと場所を移します。

 

埼玉県さいたま市

浦和、与野、大宮の3市が合併し誕生した政令指定都市で、後に岩槻市も加わりました。私は旧大宮の生まれで、12歳の時に愛知へ移りましたが、その後戻ってきた際も場所は変われどまだ旧大宮のエリアに住んでおります。

 

大宮は9路線が集まるターミナルで、JR大宮駅の年間乗車人員は2017年度で約25万人とJR東日本内で第8位。それだけ人が集まる環境であれば必然的に埼玉県最大の繁華街が形成され、ゲームセンターも全盛期は多数立地していました。

 

ただその数とは裏腹に、特にハイスコアラーにとって大宮という街は非常に不遇な環境であったと言わざるを得ません。それは、

「ゲーム雑誌のハイスコア欄に掲載された店舗が過去に1店も無い」

ここに全てが凝縮されています。

それは人口的には大宮市とほぼ互角であった旧浦和市においても同様で、ハイスコア黎明期に全国規模で有名になったサークル「ACU」のホームタウンでありながら、浦和市内にあった雑誌掲載店は90年代に存在した武蔵浦和駅近くの「ゲームプラザことぶき」のみではないかと思われます。

 大宮浦和ですらそのような状況ですから、与野や岩槻は言わずもがな。つまりは現在政令指定都市にありながら過去に雑誌掲載スコア集計店はほぼ存在しなかったこととなります。

 

それが結果的にどのような状況を生んだのか、となると集計店がある場所へ出向いて行くことになります。埼玉県南部のプレイヤーが向かう場所は製品入荷、店舗数、情報量、日常的行動範囲を鑑みれば東京都心へ向かうのは必定。

私がスコアラー的なことに目覚めたのは80年代後半に名古屋へ移ってからのことなので、それ以前のスコアラー視点での大宮の状況ははっきりとは分かりませんが、90年代に戻ってきた際でも地元のスコア集計店には恵まれず、結局は通学やバイトの関係で都心の集計店をホームとする状況。そしてその状況は現在まで変わることはありませんでした。

 

その2へ続きます。

私のアーケードゲーム履歴書 コットン 番外編 その2

私は行ってないのですが、5月19日実施されたイベント「ゲームレジェンド」で、コットンの最新作がリリースされるという発表があったようです。

https://www.beep-shop.com/sap/cotton/

 

この情報を元に私の所へも「やらないのか?」という叱咤という名の冷やかしをいくつか頂きましたw

あまりやる気はなかったのですが、初代がベースになっているという話を聞き少し興味が湧いてきた所に、以下ファミ通の記事が流れてきたので確認しました。

https://www.famitsu.com/news/201905/19176194.html

 

初代は初代でもX68000の移植版がベースで、アーケード版ではないんですね。

今は処分してしまいしたが以前にX68000は所有していて、コットンもプレイしたことがあります。正直ゲームは全く別物です。

キャラや背景は確かにコットンですが、ゲームを始めるとアーケード版に慣れた人間からすれば最初から動きに違和感があります。まあハードの性能やデータ読み込みの問題もあって昔の移植ではそれはよくあることなのですが…

 

f:id:annaka-haruna:20190525134741p:plain

1面中ボスが、アーケード版は周囲を取り囲む岩が最初から画面のように広がって現れるのに対して、X68000版は顔だけ最初に現れ、顔の部分から岩が徐々に広がっていったような記憶があります。その演出の相違にゲームから発せられる何か根本的な違和感を感じます。

そしてアーケード版同様に稼ぎをするべく、バリアを張って顔の部分に突っ込んだところ、全く点が入らなかったことを確認。それから2度とゲームを起動することはありませんでした。

そう、X68000版はバリア稼ぎが無効となっているんです。

稼ぎに面白さを見出していた私にとってはこの仕様変更はとても許容できるものではありませんでした。

 

上記ファミ通の記事に、以下のような記載があります。

(以下記事より引用)

 

丸山 アーケード版よりX68000版のほうが、2面ボスのパターンが変わっていたりですとか、ゲームバランスがリファインされているんです。周囲の『コットン』ファンとも相談しまして、X68000版がいちばん『コットン』の完成度が高いのではないか? という判断で、X68000版の移植に決定しました。

丸山 はい、出さないワケにはいきません! X68000版『コットン』を移植した、X68000版『コットン リブート(仮)』も出ます(笑)。媒体は、5インチフロッピーディスクです。ただ現代機で遊ぶのもいいのですが、やはりBEEPとしてはX68000版も欲しくなってしまって(笑)。

 

X68000版ってそんなに売れたのかなあ…いや売れるのとゲームの面白さは全く別だとは思いますが、少なくとも周囲からX68000版が完成度高いなんて話は全く聞いたことが無いんですが。

なんか、「現代でX68000版を出す」という目的が先にあってX68000版の移植に決定したんじゃないかと…まあこれ以上は下種の勘繰りなので止めておきます。

 

バリア稼ぎが製品で実装される可能性もあるので、実際のところ製品を見て判断するのが正しいんでしょうけど、最初にミソ付いてしまった気分なので購入しても恐らく真剣にはやらないと思います。

まあゲームはゲーセンでプレイしてなんぼと思っておりますので。

ゲームセンター回顧録 イエローハットと名古屋駅太閤通口の店舗群 その6

 最後に、イエローハットトンガ王国以外に存在した店舗をGooglemap上で赤マーカーにてプロットしました。

現在の外観写真も追加しております。(全て撮影は2019年2月9日)

一応、イエローハット及びトンガ王国の位置も青マーカーにて追記しました。

私が存じ上げない店舗がプロットされていない可能性があることはご容赦下さい。また、ビックカメラ内のような特殊な店舗は対象外としております。

 

①店名不詳1

則武一丁目交差点角の雑居ビル1階にあった店舗。店名は分かりません。

ビデオゲームだけ設置していた典型的な放置ゲーセンでしたが、反面維持コストが掛からなかったのか地味に後年まで残っていたような。学生よりむしろ交差点の先に存在する風俗街の客がメインだったのかもしれません。

ガルディア(コアランド/セガ、1986)が置いてあったのを覚えています。現在は「ボディケアスクール」ってマッサージ師の養成所か何かでしょうか…

 

②店名不詳2

写真の地産ビル(1階に吉野家があるビル)の地下にゲーセンがあったようです。ここも店名不詳。

ビルの側面に「ゲーム」のサインが掲示されていたため、ゲーセンが入居していたことは事実なのですが、一度も入店したことが無く、また中の様子は全く窺い知れなかったため、設置機種や客層は全くもって不明です。

流石に立地が悪すぎたようで、早々にアダルトビデオ店になっていたようです。

 

③ゲームボックスQ

トンガ王国の運営が引き継がれ、ゲームボックスQ2と命名された理由となる元の店舗がこちら…とはいっても更地になっていましたが、恐らくこの場所で間違いなかったかと思います。

 手前の道路に面した入口の間口が狭く奥行きが長い店舗で、確か2階建てだったかな?場所柄店内は殆ど汎用ビデオゲームで占められており、予備校の校舎からもっとも近い場所だったため結構振るわっていた記憶があります。

ただスコアラーにはベクトルが向かなかったこともあり、オープン後に様子を見て以降は全く行くことは無くなりました。90年代の対戦格闘ブームの後は対戦系の客層がメインだったようです。

トンガの運営を引き継いだ後はQ2と2店体制でしたが、結局Q2よりも先に閉店してしまいました。

 

④ゲームコーナーサンキョー

名古屋駅正面の雑居ビル地下1階にあった店舗で、ここもビデオゲームメインの放置ゲーセンでした。特色と言えば地下街から直接入れることくらい。3枚目の写真真ん中から奥へ伸びる階段がビルに直結しており、地下街から店内を窺い知ることが出来ました。現在は美容系の医院となっています。

 

⑤ゲームハウスTAIYO

ゲームコーナーサンキョーと並んだ隣のビルのこちらも地下1階の店でしたが、地下街から直結ではなく1階から入店が必要。1階は現在も営業を続けているパチンコ店で、昔は多かったパチンコ店同居型の店舗でした。

ウエックルマン24のスピン筐体がここにだけあったので、見に行った覚えがあります。搬入大変だったろうなあ…

現在は地下アイドルの劇場となっている模様。

 

⑥AMESEMENT KING

写真のビル1階、昭和食堂の場所が店舗の跡地となります。

駅正面にあった店舗を除いて予備校街側に集中していたゲーセン群の中で、ここだけ少し離れた繁華街側にありました。

最大の特徴は、1980年代後半のこの界隈で唯一料金が1プレイ50円だったこと。そのため、学生はわざわざここまで出向いていた人も多かったようです。

正直プレイ価格が安いこと位しかメリットが無かったのですが、ゲームに詳しい方が店員となって以降、ハイスコア集計(集計誌には非掲載)やコミュニケーションノートを設置していた時期があり、時折覗きに行く程度にはなりました。ただ、連射装置の設置等のサービス面まで含めたメンテナンスは今一つで、客が多く落ち着かないこともあり、プレイ環境の方が大事だった私はイエロー、トンガの両店からホームを変えることはありませんでした。

 

 

再開発で次々と装いを変えている名古屋駅桜通口と比較し、太閤通口の佇まいは基本30年前とそれ程大きくは変わっていませんが、ゲーセンの数だけはめっきり少なくなってしまいました。今後はリニア関係工事が予定されているようで、そうなると残された付近の雰囲気もがらりと変わって行くことになるんでしょうね…

ゲームセンター回顧録 イエローハットと名古屋駅太閤通口の店舗群 その5

トンガ王国も当初はコンセプトの違いを打ち出したかったのでしょうか、イエローハットに入荷していないタイトルが比較的多数導入されていました。

ギャラクシーフォースのスーパーデラックス筐体は後にも先にもこの店舗だけでしか見たことがありません。

SEGA Galaxy Force Arcade Super Deluxe (arcade demonstration) - YouTube 

 

しかし、繁華街からも外れ学生とゲームファンしか集客出来ない立地を悟ったのか、次第にイエローハットと店舗コンセプトや客層も共通していくようになります。

ただ、80年代はスコアラー的にはトンガ王国イエローハットより先行でゲームが入荷した場合や、イエローハットで目的のタイトルが空いていない場合の練習場程度の位置付けでしたが、スコアラーではないゲームファン層はスコアラーの雰囲気を嫌ってか、特にトンガ王国側にもコミュニケーションノートが設置されて以降はスコアラー層とスコア無関心層で棲み分けが進んだように思われます。

 

その後は、スコアラー御用達店舗としてのイエローハットの地位低下→閉店により、スコアラー系プレイヤーの取り込みが進み、またぷよぷよ通やティンクルスタースプライツといったニッチ層の対戦プレイヤーが他店から流入して住み着くことで中心の客層になっていった模様。

 

そして2002年には総商が店舗運営から撤退、近隣で「ゲームボックスQ」を経営していたオーナーが店舗運営を引き継いだことで店名が「ゲームボックスQ2」へと変化しました。

そう、何故「Q2」だったのか?というのは先に「Q1」が存在していたから。ゲームボックスQに関しては後述します。

 

2013年にはQ2としても閉店の危機を迎えたようですが、再びオーナーが変わることでQ3として再開し何とか生き残り現在に至っているようです。

 http://aoijun.sakura.ne.jp/Q2/

 Q2時代より店舗ホームページも継続されているようで、私が日常的に名古屋駅界隈へ行かなくなった1990年代後半から現在に至るまでの店舗の流れは、HPを確認頂くのが宜しいのではないかと思います。

f:id:annaka-haruna:20190223134820j:plain

 それにしても30年超、建物や内装には一切手を加えられていないであろうこともあって正直くたびれた感が否めなくなってしまってますね…

オールドゲームが遊べる店舗が激減する中、希少な環境の一つであるはずのQ3ってあまり話題に上らないんですよ。なんとなく分かる気がしますけど…今や老舗の店舗なので頑張って欲しいのですが。

 

その6へ続きます。

ゲームセンター回顧録 イエローハットと名古屋駅太閤通口の店舗群 その4

f:id:annaka-haruna:20190223132110j:plain

f:id:annaka-haruna:20190223132154j:plain

2019年2月9日撮影

ゲームセンタートンガ王国→ゲームボックスQ2→ゲームボックスQ3(2019年2月9日現在)

 

名古屋駅太閤通口界隈に大量に存在したゲームセンターも、気が付けば残っているのはこの1件のみとなりました。

 まだ「現在進行形」のお店であり、最近の事情は分かりかねるため、自身の過去の見聞の範囲で記載することを予めご了承願います。

 

イエローハットの地図で、左上に「ゲームセンター」の表示があることに気付かれた方もいらっしゃると思います。

イエローハットの裏側入口と同じ通りに面しており、その距離徒歩1分。繁華街でゲーセンが林立している場所ならともかく、普段は静かなこの場所に2件ゲーセンが近接していたのは奇妙な光景だったかもしれません。

 

私がイエローハットに行くようになった際には、既にこの店舗は存在していました。最初の店舗名は「トンガ王国」。現在の写真に写っている逆三角形のサインは30年以上前から変わっていません。

トンガ王国は、愛知県は三河地域の有力ディストリビューターで、ロケーションも多数展開していた株式会社総商の運営で、名古屋営業所を併設していました。総商と聞いてもピンと来ない方が多いとは思いますが、店舗名「ユーファクトリー」と聞けばお分かりになる方もいらっしゃることと思います。

 

U-factory CM

youtu.be

昔は中京ローカルとは言えでテレビCMを流せるような会社だったのですが、2013年に倒産しているそうです…これもまた時代の流れか。

イエローハットナムコ系の店舗で、ゲームファンにベクトルが向いていたのに対し、こちらは店内に鏡を多用したアダルティな店内で、当初はメダルコーナーも設置されていました。ユーファクトリーのコンセプトをそのまま小さくしたような店舗だったと記憶しています。

 

その5へ続きます。

 

ゲームセンター回顧録 イエローハットと名古屋駅太閤通口の店舗群 その3

他のスコア集計店(特にナムコ系の店舗)と異なっていたイエローハットならではの光景として、以下を記憶しています。

 

①ハイスコアボード

よく「プレイシティキャロット巣鴨」のハイスコアボードが綺麗だったことが語られていますが(私も見たことがあります)、イエローハットのボードも負けず劣らず綺麗なものでした。店員氏がゲームタイトル部分をイラスト入りで作成していたことも一緒。こういうものが写真で残っていないのは今から思えば勿体ない限りです…

また、ハイスコアボードとは別に「テトリスカンスト達成者ボード」が初代テトリス全盛期に設置されており、カンスト達成して達成時のライン数を申請するとボードに名前および達成ライン数を記載して貰えました。達成後もライン数の自己ベストを更新すれば都度書き換えて貰えるシステム。

トップクラスのスコアを出してメインのスコアボードに名前を載せるのは大変でしたが、こちらであれば結構気楽に名前を店内に掲載して貰えたため、丁度良いモチベーションになっていたのではないかと思われます。

 

②謎のテーブル筐体群

正面入口側に大型筐体系やピンボールが並び、他のビデオゲームは当初テーブル筐体がメインだったのですが、アップライトタイプのナムココンソレット筐体が主流になって以降も、反対入口側には多数のテーブル筐体が残存していました。

その大半が実は脱衣麻雀で、どうも店舗オーナーが名古屋が本社のダイナックス(後の中日本→テクノトップ)と関係があったらしく、その絡みで設置されていた模様で、ナムコ系の店舗にはあまり見られない光景ではありました。

お昼時になると、予備校生群がこのテーブル筐体で近所の弁当屋で買ってきた弁当を広げて食べており、午後になると皆授業に帰って行ったものです。

脱衣麻雀以外の通常ゲームタイトルもテーブルでいくつか稼働しており、テーカンワールドカップはテーブル筐体が残った関係で店舗に設置され続け、長期間に渡り対戦を楽しむことが出来ました。またナムコロケではほとんど見かけなかったゲイングランドセガ)や、バルキューブ(メトロ)のようなマイナーゲームが時折設置されていたのは、オーナーサイドの設置基板だったからなのかもしれません。

 

③店舗向かいのカラオケ店

正面入口を出て真反対の建物の1階(写真はありませんが、現在個室ビデオの桃太郎がある場所)がカラオケ店となっており、そこもイエローハットが運営していました。オーナー経営なのかナムコも噛んでいたのかは不明ですが、店員氏は共通となっていました。

こちらはゲームよりも前に店を閉めていた記憶があります。

 

調べてみたところ、イエローハットの閉店は2000年8月とのこと。もう20年近く経つんですね…

私が頻繁に通っていたのは1996年位までで、オレンジペコにホームを移したことや知り合いの店員氏も店を離れていたこともあり、末期は殆ど訪問した記憶がありません。

 

そして、このブログ内でも既に何回が名前が出ていますが、イエローハットとは全く無関係なのに場所がすぐ近くのため何かとセットにされ易かった「トンガ王国→ゲームボックスQ2」のこともこの界隈を語るうえでは避けて通れません。次回からはそちらを取り上げようと思います。

 

その4へ続きます。

ゲームセンター回顧録 イエローハットと名古屋駅太閤通口の店舗群 その2

主要駅近隣とは言え、立地は決して良くなかったイエローハットですが、ゲームの入荷は恐らく当時の星ヶ丘キャロットハウスよりも良かったのではないかと思われます。

私がイエローハットへ行くようになったのは80年代後半ですが、丁度その頃はセガ体感ゲームの全盛期。

2階への大型筐体搬入がほぼ不可能で、1階だけでは狭すぎる星ヶ丘と比べ、1階に広い間口を構えていたイエローハットには、

アフターバーナー(ダブルクレイドル)、パワードリフト、ヘビーウェイトチャンプといったセガタイトル群や、ウェックルマン24、またファイナルラップも発売当初4人同時で入荷し、店員氏が並んでいる客を整理しつつプレイ実況をされていた光景が思い浮かびます。

やはり予備校生を中心とした旺盛な需要に支えられていたのでしょう。

 

また、80年代後半は星ヶ丘に代わって名古屋スコアラー界のフロントラインであったことも間違いありません。

ゲーメストが創刊され、スコア集計がベーマガゲーメストの2本立てとなっていた時代、双方で集計を実施していたイエローハットに対して星ヶ丘ゲーメストへの掲載は実施されず、製品の入荷状況とも相まってスコアラーは確実にイエローハットへ流れていました。

特に印象に残っているタイトルと言えば、基板タイトルで言えばSDI、ロストワールド、あと何といっても初代パロディウス

当時鬼門だった2周目4面クリアに、スコアラーの皆様が血道をあげていた光景をいつも唖然としながら横目で眺めておりました。

 f:id:annaka-haruna:20190420101252p:plain

ゲーメスト 1990年4月15日号より)

この前後が私が最も出入りしていた時期でしょうか。

浪人中の身で、それこそ平日の朝からゲーセンに行っていた時期。(遠い目)

しかし当時の一線のスコアラーは雲の上の存在で殆ど交流は無く、もっぱら私と同様に予備校街に集まってきたゲーム好きの学生と店に設置されていたコミュニケーションノート上のやり取りで知り合い、一緒に遊んでおりました。

まだSNSはおろか携帯さえ普及していなかった時代、コミュニケーションノートを設置しているゲーセンは出自も年齢も異なる人たちがゲーム好きという理由だけで集まる、アナログ時代のサブカルチャー最先端の空間。全盛期でもあったハイスコア争いと共にその熱量をリアルに経験している我々の世代が、あの頃の残滓を求めて今もゲーセンに足を運んでいるのではないかと思います。

その3へ続きます。

ゲームセンター回顧録 イエローハットと名古屋駅太閤通口の店舗群 その1

f:id:annaka-haruna:20190330003632p:plain

ゲーメスト 1991年12月号より)

f:id:annaka-haruna:20190223131858j:plain

f:id:annaka-haruna:20190223132024j:plain

2019年2月9日撮影

 

名古屋駅太閤通口から徒歩約10分(ゲームプラザイエローハット

写真の建物の1階が元イエローハットで、現在は飲み屋になっています。写真は建物の表側と裏側ですが、イエローハット時代はどちらからも出入りすることが可能な構造でした。2階から上のホテルは昔から変わっていません。

 

星ヶ丘キャロットハウスでナムコ直営店舗の存在とその店舗クオリティの高さを知ることになって程なく、名古屋駅付近にもナムコの店舗があるという情報を耳にします。その情報を元に名古屋駅界隈をあちこち探してみたのですがなかなかそれらしき店舗は発見出来ませんでした。

それもそのはず、私は名古屋駅付近の中心街である、今の施設で説明すると高島屋名鉄名古屋駅がある桜通口側ばかりを探していたから。

これから紹介するゲームプラザイエローハット及び周辺店舗群は、新幹線がある太閤通口側に立地しており、かつイエローハットは駅から少々離れた繁華街とは程遠い場所にあるため、初めて辿り着くまでにかなり苦労した覚えがあります。

 

なぜそんな場所にゲームセンターが多数立地出来たのか?と言えば、名古屋駅太閤通口は俗に「親不孝通り」と言われた予備校の集中地帯だったからに他成りません。新幹線から見える河合塾の校舎群でご存じの方も多いと思います。

 

イエローハットは、河合塾校舎群や代々木ゼミナール名古屋校を通り過ぎた裏手にあり、繁華街でもなく人通りもまばらなこの場所に出入りしていたのは昼間は殆どが学生や浪人生。そして夜になると名古屋のスコアラーが集まってきておりました。

ナムコの完全直営店ではなく店舗オーナーが別に存在しており、キャロットの名称を使用しなかったのはそれが原因かどうかは不明ですが、ハイスコア集計、連射装置やヘッドホン端子の改造、コミュニケーションノートの設置などコンセプトは明らかに当時のナムコがイニシアチブを持っていたゲームファン向けの店舗そのものでした。

 

かくして私も高校生となり、夏期講習などで予備校に通いがてら、この親不孝通り界隈に出入りすることになります。それは結果として名古屋までゲームをプレイしに向かう際には、星ヶ丘ではなく名古屋駅付近へ行くことに繋がっていくのでありました。

 

その2へ続きます。